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個別集落の性格と祀りの形
ここに紹介してきた遺跡の祭祀の姿をまとめます。
【弥生中期】
下之郷遺跡:環濠での祭祀を主とし、環濠そばの土坑・井戸でも祭祀を行った
      祭殿が建つ中央区域の井戸で「祭祀用の水」の祭事を行った?
環濠内部は掘立柱建物と朝鮮系の壁立建物ばかり、渡来人もいる国際的な交易センターと
いう見方がある。水辺の祭祀と井戸による「祭祀用の水」を得る祭祀の両方が見える
下鈎遺跡:初期形態の導水施設を中心として、川、溝、水場遺構で水辺の祭祀を行った
環濠集落で、発掘範囲は狭いがびわ湖と結ぶ河川水運の拠点と考えられる
後の王権の祭祀となる導水施設のひな型となるシステムをを作り出した
水運拠点としてのいろいろな形の「水の祭祀」の姿が見える
服部遺跡:集落の発掘範囲は狭いが、農村集落の祭祀の様子がうかがわれる
【弥生後期】
伊勢遺跡:導水施設の途中段階が見られる。中央の井戸で「祭祀用の水」を得ていた?
大型建物が立ち並ぶ巨大祭祀空間でクニの祀り(恐らく銅鐸の祀り)を行った
下鈎遺跡の初期的な導水施設の浄水機能を向上した施設を作り出した
中央の大型建物の線上に位置する井戸で「祭祀用の水」を得ていた?
下鈎遺跡:大型祭殿と川の傍で「水辺の祭祀」が盛大に執行された
びわ湖水運拠点と工業製品(青銅、水銀朱)生産拠点の2つの顔があり、祭祀も異なる
水運拠点の祭祀は人の気配濃厚で盛大。工業製品拠点は人の気配なく祭祀遺物なし
服部遺跡:集落の発掘範囲は狭いが、拠点集落の祭祀の様子がうかがわれる
青銅器生産をうかがわせる遺物、格式高い飾り櫛などが出土しており、拠点集落の祭祀の姿が見られる
【古墳早期】
下長遺跡:クニも関わるびわ湖水運の拠点としてランクの高い水辺の祭祀が行われた
大型祭殿と首長居館と川辺で盛大な水辺の祭祀が行われ、王権にかかわる祭祀具、希少祭祀具
を使用、あわせて井泉祭祀、特殊区画での祭祀などのいろいろな祭祀の姿が見られる
服部遺跡:本格的な導水施設を導入、祭祀の痕跡はほとんどなく、秘儀であったよう
纏向遺跡に先立つ導水施設を設置、本体、周辺からの祭祀遺物はほとんどなく、
祭祀の様子は不詳、集落で「水辺の祭祀」を行った痕跡があるが不詳
【古墳中期】
下鈎遺跡:導水施設の祭りが変化し中央土坑で水辺の祭祀を実施、多量の玉を出土
発掘範囲が少なく遺跡の性格は分からないが、導水施設と古墳が出土
導水施設と同じ構成の中央土坑で水辺の祭祀を実施、導水施設祭祀の変化を示す?

水辺の祭祀と導水施設の疑問
「祭祀用の水」を得る導水施設と井戸の関係は?
「祭祀用の水」を得る目的の導水施設と井戸、設置される環境に違いが見られます。
どちらかを設置すれば目的を達するのか? 両方が必要なのか?
【祭祀用の水の井戸の位置は中央部】
弥生時代中期の唐古鍵遺跡中心部の大型祭殿と大井戸、下之郷遺跡の祭殿・大型建物群の広場に設けられた井戸は首長が執り行うランクの高い祭祀に用いられる水を得ていたと考えられます。
弥生時代後期の伊勢遺跡では、祭殿・大型建物群の広場に井戸が設けられていました。
いずれも遺構中心部の人目につきやすい場所になります。
(伊勢遺跡の祭祀域は、人の立ち入りを管理していた可能性があります)
【導水施設の位置は集落のはずれ】
弥生時代中期の下鈎遺跡では、居住区から離れた祭祀域に導水施設を設けました。区画溝に囲われ、だれもが入れる場所ではなかったようです。
伊勢遺跡では、祭祀域のはずれに導水施設が設けられていました。
古墳時代早期の服部遺跡では、川を隔てた集落のはずれに本格的な導水施設を設けました。
参考として記載した纏向遺跡と南郷大東遺跡の導水施設は、いずれも遺構の周辺はずれ部にあったようです。
【両方でワンセットか? 伊勢遺跡】
他の遺跡では未発掘の可能性がありますが、両方の施設が見つかっているのは伊勢遺跡だけです。
伊勢遺跡では、2つの施設の設置場所に大きな違いがあります。
両者ともに「聖なる水」を得る施設とみなされていますが、どのような使い分けがされていたのか? 疑問が残ります。
ここでは簡単にしか触れませんでしたが、宝塚1号墳の囲形埴輪では、導水施設の埴輪と「聖なる水」の井戸の埴輪が置かれていました。また、5世紀後半の群馬県の三ツ寺T遺跡の豪族の居館からも、導水施設と井戸が相対して設けてありました。
本来、両施設を対で設けることに意義があるのでしょうか?
導水施設の聖なる水の祀りと水辺の祀りの関係は?
首長や王権がクニの安寧の祈り、祖霊祭祀などのために導水施設で行う「聖なる水」の祀りと生活に密着した人々の願いを祈った「水辺の祭祀」は全く性格の異なる祭祀です。
しかし、下鈎遺跡と伊勢遺跡では、導水施設の近辺に水辺の井戸や水場遺構など「水辺の祀り」の遺構があります。
導水施設と水辺の祭祀の遺構が全く別の祭祀場として運営されたのか、協調して運営されたのか読み解けません。
下鈎遺跡では、導水施設のある祭祀域でも区画溝となる自然流路や溝に土器を入れていますが、祀りの一環として埋納したのか? または祀り終わった後で廃棄したのか分かりません。形は「水辺の祀り」と同じです。
井戸や水場遺構が導水施設域と隣接して存在していることは、何らかの関連性があると解釈できます。

下鈎遺跡の導水施設と水辺の祭祀遺構
下鈎遺跡の導水施設と水辺の祭祀遺構



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