ヘッダー画像
下鈎遺跡-弥生中期 の水辺の祭祀
 〜導水施設の周辺でいろいろな水辺の祭祀が見えてくる〜
下之郷遺跡と同じ時期の環濠集落遺跡ですが、祭祀の形は大きく異なっています。
環濠からの祭祀遺物はほとんどなく、導水施設の周辺の川辺でいろいろな形の水辺の祭祀を行っていたようです。
下鈎遺跡(弥生時代中期)の概要
下鈎遺跡(弥生時代中期)の遺構
下鈎遺跡(弥生時代中期)の遺構
滋賀県発掘調査報告書より作成
下鈎遺跡のことは「導水施設」のところに書いたので、遺跡紹介はそちらをご覧ください。
下鈎遺跡は、下之郷遺跡から4km程離れた所に同時期に存在していました。
同じ環濠集落ですが、集落の構造は大きく異なり、下鈎遺跡は、集落の中を大きな川が2つ流れていました。
このためか、いろいろな形の水辺の祭祀が執り行われていました。
その反面、環濠からはほとんど遺物は出てこず、下之郷遺跡とは様相が異なります。

地形的特徴

下鈎遺跡での祭祀を推測するためには、遺跡のある地形的な特徴とそこから読み取れる遺跡の生業を知っておく必要があります。
地形的には扇状地の末端部に当たり高乾地になるが、下鈎遺跡は微高地と微高地の間に挟まれた比較的低地にあります。このため川が集落の中を流れているのです。
比較的低地ということは、川を舟でさかのぼるとき、氾濫原と扇状地の間にある標高の段差が少なく、舟で何とか陸路の積換え地点まで上ることができるというメリットがあります。
このため下鈎遺跡は、舟によるびわ湖水運〜河川水運〜陸路の積換え拠点であったと推測しています。
したがって、ここで行われる祭祀は水運を強く意識したものになるでしょう。
このように考えると、農耕祭祀として、土坑を掘りあるいは井戸を通じて地下他界のカミを呼び寄せカミマツリを行うことは動機としてあまり強くないと思われます。

水の祭祀場と出土遺物

中期の水辺の祭祀域
中期の水辺の祭祀域所
滋賀県発掘調査報告書より作成

下鈎遺跡の祭祀域を示します。
導水施設を核にして、周辺に
・水辺の祭祀場
・井戸の祭祀
・水場遺構

などがありました。 

一方、環濠が見つかっている場所での祭祀の痕跡は見当たりません。
発掘された範囲が狭く、居住域が少ししか見つかっておらす、生活域で行われたかもしれない祭祀について分かっていません。
祭祀域での出土遺物

井戸の祭祀と水辺の祭祀

導水施設の北側を区切る自然流路の下流側(図中、左側)から、水辺の祭祀に用いたと思われる勾玉・管玉、銅釧(どうくしろ)が出土しています。
水辺遺構の出土祭器
水辺遺構の出土祭器  滋賀県発掘調査報告書より作成
【勾玉と管玉】
勾玉と管玉は溝のほぼ同じ場所から出土しています。管玉の材質は碧玉で、石英より少し柔らかいが硬質の石で、勾玉はヒスイでとても硬い石です。古墳時代に多量に作られる滑石を用いた玉に比べると各段に硬い石なので作るのは大変な作業です。見た目も美しく、とても貴重な威儀具であったに違いありません。
ヒスイ製勾玉と碧玉製管玉   銅釧(どうくしろ) 井戸からの一括出土土器
ヒスイ製勾玉と碧玉製管玉銅釧(どうくしろ)井戸からの一括出土土器
写真:滋賀県教育委員会
【銅釧(どうくしろ)】
銅釧は勾玉や管玉から10数m離れたところから見つかりました。
直径5cmの銅釧は腕輪として用いられたもので、身分の高さを誇示するものです。

井戸の祭祀

導水施設の南側の区画溝の下流側にあたる溝の傍に掘られた直径2mの素掘りの井戸から、ほぼ完全な形状の土器5点が出土しました。 土坑に土器を収めた遺構はよく見られますが、井戸自体が祭祀施設ですし、導水施設とつながる溝に接した井戸に土器を収めるのは、特別に大切なマツリであったと考えられます。

川辺の祭祀?

環濠の中央を流れている幅が約20mの川跡から、銅鏃の未成品や絵画土器、朱塗りの盾、刀の鞘(さや)の片身、木製高坏の台座などが出土しています。 報告書では細かい発見場所まで分からないので、一つの赤丸で示しています。 流れのある川の流路内では、遺物が原位置を保っている保証はないのと、上層(後の時代になる)との混じりあいもあるので、弥生時代中期の遺構から出土しても、中期遺物と確言できません。 このホームページでは、弥生時代中期の遺物として掲載しますが、解釈に留意を要します。
【刀の鞘】
川跡から刀(剣?)の鞘の片側が見つかっています。 全長約45cm、幅が約5cmで内部が削り込んで断面がU字形になっています。鞘尻に向けて丁寧に薄くなるように仕上げています。鞘尻から約10cmのところには、2枚の鞘を縛って接合させるために幅約5cm溝が彫り込んであります。
刀剣の鞘 朱塗りの盾の一部
刀剣の鞘朱塗りの盾の一部
写真:滋賀県教育委員会
【朱塗りの盾】
同じく川跡から朱塗りの盾の一部(長さ約14cm)が見つかっています。直径2mm程度の孔が4か所に開けてあります。朱塗りの盾はこの時代の他の遺跡からも割と多く見つかっており、祭祀や魔除けに使われたと考えられています。
【木製高坏の台座】
これも同じ川跡から出土したものですが、木製高坏の台座です。
台座の表面は焼けて炭化していますが、底や器本体との結合部は炭化していません。置いてある状態で燃え、器本体を取り外して捨て た状態です。
土器の高坏はどこでも多く見つかっており普段使いの器でしたが、木製の高坏は祭祀に用いるか、身分の高い人物が威厳を示すために使ったと言われています。
木製高坏の台座 銅鏃未成品
木製高坏の台座(滋賀県教委の図を加工)銅鏃未成品 写真:滋賀県教委
【銅鏃未成品】
川跡から見つかった銅鏃は連続鋳造したものを切り離しただけの未成品です。バリを取ったり先端を尖らせたりする必要があるのでが、一部に欠損がある不完全品なので捨てたのかもしれません。

水場遺構

井戸や川に供献物を投げ込むのではなく、川から水を引き出して水場を作り、そこで祭祀をしていた遺構が2か所で見つかっています。
この2か所を「北の水場遺構」、「南の水場遺構」と呼ぶことにします。

水場遺構
水場遺構  出典:滋賀県発掘調査報告書より作成
【南の水場遺構】
導水施設の祭祀域は北側は自然流路で区切られています。その自然流路に流れ込む川に水場遺構があります。
川の屈曲部から引き出した人工的な溝が造ってあり、長さは7m程度、幅は3〜4mです。
溝の先端に接して土坑が掘ってありました。突出部には杭が2本打ち込んであり、横木が渡してあります。川から取り込んだ水の量を調節する堰(せき)のような役割でしょうか。
この場所は、導水施設の祭祀域外で居住域に接していることから、生活の場で使う水を取り出して使っていたと考えられますが、ここから祭祀用とみなされる完形土器が数多く出ているので、導水施設とは異なる「水辺の祭祀」を行っていたと推定しています。
南の水場遺構 水場遺構の推定模式図
南の水場遺構
出典:滋賀県発掘調査報告書より作成
水場遺構の推定模式図
イラスト:田口一宏

【北の水場状遺構】
北の水場状遺構
北の水場状遺構  
出典:滋賀県発掘調査報告書より作成
前節で述べた水場遺構から北へ100m強のところに弥生中期の水場状遺構がもう一つあります。
見方によっては、導水施設状の遺構とも見える施設です。後世の大きな溝で上部と下部が切られているため、全体像は判別しにくいのですが特異な遺構です。
土坑Aには3〜5cmの丸みのある礫を敷き詰めてあり、特別に手をかけた土坑になっています。土坑Aと溝Aは前節の水場遺構とよく似た構成です。溝Bにつながる土坑Bは後世の溝で切られており、下流側の様子が分かりません。
土坑Bで止まっておれば、土坑A+溝Aと左右対称的な水場遺構となります。
土坑Bにつながる溝が河川などの排水系につながっておれば、導水施設状の遺構となります。
水場遺構であれ導水施設であったとしても、集落の首長が執り行うと考えられている祭祀が、複数か所にあったことになります。あるいは時期が異なるのかもしれません。土坑Cも水場の使い方として気になる存在です。

完形土器の埋納状況

完形品〜準完形品の出土状況についてみてます。 完全な形で土器が出土することはほとんどありませんが、破片をつなぎ合わせるとほぼ元の形に復元できるものがあります。元の全体像をほぼ復元できたものを、ここでは“完形品”と呼んでおきます。 完形品〜完形品に近い土器の出土状況を示します。
完形土器の出土状況
完形土器の出土状況
出典:滋賀県発掘調査報告書より作成

(準)完形土器の出土状況
場所(準)完形土器図面化点数
溝23点272点
溝3354
自然流路230
川195
川1突出部65
川2111
井戸

川1突出部(水場遺構)での完形品の出土割合が多いことが分かります。
また、祭祀用に使われた井戸での完形品5個の埋納は、特別なことであることがよく分かります。    
祭祀域の溝と流路から各2〜3個の完形品が出ていますが、一度に多量の土器が廃棄されていることからマツリに関して埋納されたとは考えにくいです。
川2からは完形品は出てきません。でも、川1の突出部からは4個完形品が出ており、廃棄土器量から考えると、特別に多いと言えます。水場遺構につながる川1からも2個出ています。これらは水場遺構から転がり出たものとも考えられます。
このことから、水場遺構は完形土器を使って水辺の祀りを行っていたと考えます。
祭祀の形の想像
祭祀域の配置とこれまでの遺物の観察から、この区域で行われていた祭祀の形態を考察します。 大きくは4つの祭祀形態があったと考えます。
@区画溝と自然流路で囲われた導水施設区域での祭祀
A上記区画溝の下流側の川や井戸で行われる水の祭祀
B導水施設の区画外で行われる水場遺構での祭祀
C環濠中央を横切る川辺で行われる水の祭祀

@導水施設の祭祀

導水施設周辺での祀りの想像図
導水施設周辺での祀りの想像図
イラスト:中井純子イラスト:中井純子
導水施設の祭祀は、「聖なる水」を得るための行為であるとされています。しかし、施設に付随する掘立柱建物の周辺広場がかなり広いこと、祭祀域の区画となる自然流路や溝に多量の土器と炭化物が捨てられることから、土坑周辺で行う「聖なる水」を得る祀りごとと合わせて、広場で火を燃やし土器を割って灰や、焼けた土とともに区画溝に捨てる(埋置)行為をしていたと推測します。
首長が「聖なる水」を得る祭事を行い、クニ祀りや祖霊祭祀を行った後に「水辺の祀り」を行ったのでしょう。
5km離れた同時代の下之郷遺跡では、環濠近くに土坑をいくつも掘っては掘って土器や灰、焼けた土を穴に入れる作業を繰り返したいました。火を燃やし土器を割って灰や、焼けた土とともに土坑に入れる「水辺の祀り」をしており、当時の共通の祭祀様式のようです。
導水施設で得た「聖なる水」の使い方は分かりませんが、祭祀執行者が身を清めるとか、カミマツリ で使うのでしょう。

A区画溝の下流側の川や井戸で行われる水辺の祭祀

川や井戸で行われる水辺の祭祀の想像図
川や井戸で行われる水辺の祭祀の想像図
イラスト:中井純子イラスト:中井純子
区画溝は導水施設の一部と考えると導水施設の祭祀と関連があると考えられます。
自然流路の下流側に勾玉や銅釧を埋納したり、区画溝の下流側の井戸に完形土器を入れています。
導水施設の祭祀もいつも同じではなく、特別な日や目的があるときに水辺の祭祀を行ったと考えます。
下之郷遺跡と対比してみれば、土坑祭祀場に隣接する環濠に特別な土器や木器を入れる行為に類似しています。

B導水施設区画外の水場遺構での祭祀

水場遺構での祭祀の想像図
水場遺構での祭祀の想像図
イラスト:中井純子イラスト:中井純子
水場遺構は、導水施設の区画外でかつ居住域に近い所にあることからして、「聖なる水」とは関係のない祀りごととして執り行っていたのでしょう。
稲を育て草木を育む大地の力を崇める地下のカミマツリを行うのが土坑(井戸)であり溝であるのならば、それとは関係のない生活に密着した身近な祭祀を行ったのが川の水を引き込んだ水場遺構での祀りでしょう。祭祀の供献物として完形土器を捧げたようです。

C中央の川辺で行われる水辺の祭祀

流れのある大きい川で見つかる木器はどこから流れ込んだのか分かりませんが、環濠中央の川で見つかった特別な遺物を祭祀具として、川に投げ込む形の祭祀があったことになります。
木器の祭祀具もどこかの上流の川岸で行った祭祀とも考えられます。
水辺の祀りは、生活に密着した願いや祈りと考えられていますが、下鈎遺跡はびわ湖〜河川水運に関わる遺跡と考えられ、祀りの対象に「水運の安全」があったとみなしています。
時代は下りますが、同じように遺跡の中央を大きな川が流れている下長遺跡では川の全範囲が発掘され、川のあちらこちらで貴重な遺物が見つかっており、川岸で「水辺の祭祀」が行われていました。
下鈎遺跡でも祀りの対象に「水運の安全」があったと考えています。

mae top tugi