下鈎遺跡-弥生後期 の水辺の祭祀
〜川辺の祭祀で多様な祀りの様子が見えてくる〜
中期集落と同じように集落の中を大きな川が流れており、南と北に大きな祭殿が複数棟建てられ、
南の祭殿付近では、水辺の祭祀が盛大に行われていました。
一方、北の祭殿付近ではほとんど祭祀遺物が出てこず、伊勢遺跡とよく似た様相です。
ちなみに、北西約1.2kmの大規模祭祀空間の伊勢遺跡は同じ時期のお隣さんでした。
中期集落と同じように集落の中を大きな川が流れており、南と北に大きな祭殿が複数棟建てられ、
南の祭殿付近では、水辺の祭祀が盛大に行われていました。
一方、北の祭殿付近ではほとんど祭祀遺物が出てこず、伊勢遺跡とよく似た様相です。
ちなみに、北西約1.2kmの大規模祭祀空間の伊勢遺跡は同じ時期のお隣さんでした。
下鈎遺跡(弥生時代後期)の概要
栗東市発掘調査報告書より作成(田口一宏) |
・伊勢遺跡とほぼ同時期に 存在し、ほぼ同じスペックの独立棟持柱建物が複数棟 建っていた。
・しかも、たった1.2kmの距離のところに存在した。
・よって、両遺跡は互いに意識し合い協調していたと思われる。
伊勢遺跡との関連で考慮すべきことを記しましたが、下鈎遺跡の集落構成で注意すべきことは、南北2か所に祭祀域があることです。同じような祭殿があるのですが、この2か所で祭祀のやり方が大きく違っています。
・しかも、たった1.2kmの距離のところに存在した。
・よって、両遺跡は互いに意識し合い協調していたと思われる。
南北2か所の祭祀域の間には居住域があるのですが、後世に削平されたこともあり、発掘戸数が少ない状況です。しかし、建物密度が低く住民の数はそれほど多くないと考えられます。
下鈎遺跡(弥生後期)の性格
祭祀の形を考える時に、ここで何を生業としていたのか、地形的にどのような特徴があるのか、などを考える必要があります。
@弥生中期のところでも述べましたが、地形的な特徴と大きな川が集落内を流れていることです。
びわ湖水運と河川水運〜陸路との積替え拠点の役割を果たしていたと考えます。
A遺物から推定されるのですが、最先端技術の生産拠点であったと思われます。一つは青銅製品の
生産で、もう一つは水銀朱の生産です。
B伊勢遺跡と連携し独自の機能を果たしていました。伊勢遺跡はクニ祀り、下鈎遺跡は水運・産業の
祀りと、機能分担をしていたと考えます。
このように考えると、下鈎遺跡では土坑を掘りあるいは井戸を通じて地下他界のカミを呼び寄せ、農耕祭祀としてカミマツリを行うことは、動機としてあまり強くないと思われます。
びわ湖水運と河川水運〜陸路との積替え拠点の役割を果たしていたと考えます。
A遺物から推定されるのですが、最先端技術の生産拠点であったと思われます。一つは青銅製品の
生産で、もう一つは水銀朱の生産です。
B伊勢遺跡と連携し独自の機能を果たしていました。伊勢遺跡はクニ祀り、下鈎遺跡は水運・産業の
祀りと、機能分担をしていたと考えます。
南の祭祀域と出土遺物
集落の中を大きな川が流れており、そのため水辺の祭祀が盛んにおこなわれていました。
土坑祭祀はあまりなく、溝に祭祀物を埋置きする形の祀りが行われていました。
南の祭祀域
滋賀県発掘調査報告書より作成(田口一宏) |
祭祀の性格を考える時に、これらの祭殿の存在と出土祭祀具を考慮する必要があります。
北西側の祭殿周辺には祭祀遺物の出土はほとんどなく、南東側の祭殿周辺には数多くの祭祀遺物が出てきます。祭祀の性格が違っていたと考えられます。
祭殿
イラスト:栗東市教育委員会 雨森智美 |
伊勢遺跡の祭殿との大きな違いは建物中央の「心柱」がないことです。これは祭祀の対象の違いであると推測しています。
南の祭祀域の東側には、2棟の建物が建っていました。1棟は、2間×4間の独立棟持柱付きの掘立柱建物で、大きさは伊勢遺跡の建物とほぼ同じサイズです。(イラストの右手前)
もう1棟は、平地式建物で祭殿とは直角方向に建てられており、発掘範囲外に広がっているため長さが分かりません。副屋として使われていたと思われます。
出土遺物
祭祀域から多くの土器が出てきますが、後ほど紹介するとして、まず、特別な祭祀物を紹介します。
栗東市発掘調査報告書より作成(田口一宏) |
【銅鏃(どうぞく)】
他の区域も含め、合計で21個の銅鏃が出土しています。その中には、多孔銅鏃という形も美しく大きな銅鏃もあります。多孔銅鏃は東海地方を中心に分布する銅鏃で、滋賀県内でも少数見つかっています。全国的に見てもこれだけの銅鏃が出土する遺跡は少なく、下鈎遺跡の特異性を示しています。
【銅塊、銅湯玉】
下鈎遺跡では、青銅製品だけではなく、鋳造するときに発生する銅残渣(ざんさ:銅のカス)や銅湯玉、銅塊などが出土しています。銅残渣は、銅を溶解して使う時にでる発泡性の銅カスで、銅湯玉とは高温で解けた銅が沸騰して飛び散る小さな粒が固まったものです。銅塊は解けた銅が滴り落ちるときに生じたしずくが固まったものです。これらは鋳造(ちゅうぞう)現場で発生するもので、下鈎遺跡のこの近くで青銅製品の鋳造が行われていた可能性が高いと言えます。
銅湯玉と銅塊 | 銅鏃(どうぞく) | 環権(かんけん:分銅) |
南の祭祀場遺物 写真:栗東市教育委員会 |
【環権(かんけん)】
環権は直径5cmで 天秤権(はかり)の標準分銅として用いられたもので、弥生時代の度量衡制度に関わる貴重な品です。朝鮮半島から伝わって来た天秤権の重りは石製がほとんどで、それも北九州と畿内でしか見つかっていません。銅製はここ下鈎遺跡だけです。天秤権は水銀朱を加工するときの計量や青銅器を作るときの金属の計量に使ったとみなされています。
下鈎遺跡で青銅製品が多く見つかるだけではなく、製造技術の根幹となる計量器の一片が見つかることから、ここで青銅器の鋳造が行われていたことを強く後押しするものです。
このような貴重な品物を川の中に埋納するマツリが行われていました。格式の高い重要な祭祀であったに違いありません。
【石杵(いしきね)】
赤い色は神聖な色として、縄文時代から古墳時代にいたるまで、土器や木製品の表面に塗られたり、お墓に使われたりしてきました。これらの赤色顔料にはベンガラ(酸化鉄)と辰砂(硫化水銀の朱)の二種類があります。ベンガラは入手、加工が簡単ですが、朱は採集できる場所が限られて、調合するにも高度な技術が必要でした。水銀朱は採集地で、大まかに粉砕して供給され、消費地で石杵と石皿を使ってすりつぶし微細化して使ったようです。
下鈎遺跡ではこのような石杵が3点も見つかっています。石杵は出土する例が少ないので、3点も出土することは珍しく、下鈎遺跡で水銀朱の精製を行っていた可能性があります。
水銀朱の調合には材料の計量が重要で、上に述べた天秤権の環権が出ていることは、ここで朱銀朱の生産が行われていたことを裏付けるものです。
【ガラス玉】
弥生時代や古墳時代の遺跡から、たくさんのガラス玉が発見されています。でも弥生時代のガラスは、すべて輸入品で漢から伝わったものでした。九州で多く見つかっていますが、野洲川下流域ではあまり見つかっていません。下鈎遺跡の水辺の祭祀場で薄い青色のガラス玉が4個見つかりました。直径は4〜5mmで墳丘以外での出土はとても珍しいものです。
石杵 | ガラス玉 | 朱塗りの木製高坏 | 黒漆+朱塗り土器 |
南の祭祀場遺物 写真:栗東市教育委員会 |
【木製朱塗り高坏】
南の祭祀の東端を区切る区画溝と考えられる溝から、木製朱塗り高坏の一部分が出土しています。土器の高坏はどこでも多く見つかっており普段使いの器でした。木製の高坏は祭祀に用いるか、身分の高い人物が威厳を示すために使ったと言われています。
ここで見つかった木製高坏は一部に朱が塗ってあり、重要な祭祀具であったと考えられます。
【黒漆+朱塗り土器】
黒漆の上に朱塗りを施した特別な弥生時代前期の土器が見つかっています。弥生前期の土器というと、ここに土器が埋納される5〜6百年前の品物です。それが元の形状を復元できる形で残されていたのですから、長期間いかに大切に扱われてきた祭祀土器であったかが分かります。
【土器整列配置】
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水場遺構
栗東市発掘調査報告書より作成(田口一宏) |
弥生中期の遺構とほぼ同じ構造で、祭祀域に隣接する点も同じです。
違うのは、後期の遺構には水場を覆う掘立柱建物が存在することです。中期の水場遺構には覆いとなる建物はありませんでした。
中期の導水施設では掘立柱建物が施設の中核となる土坑を覆っていたことを考えると、重要な施設は覆いとなる建屋が付属するようです。
この視点で見てみると、この水場遺構は日常使いと言うよりは祭祀場のための施設と考えられます。
この水場遺構の川からは多量の土器だけではなく、木製品、クルミや桃の核や桜の樹皮などの自然遺物も出ており、生活の痕跡が見られます。
周辺には居住域はなく、祭祀域に関連する生活の場であったのかもしれません。
当時、桜の樹皮は石剣の握り部に巻かれたり、木製品をつなぐ「留め具」などに使われていました。
この樹皮が多量に見つかっており、手工業生産の「留め具」としてここで作られていたことも考えられます。
北の祭祀域と出土遺物
北の祭祀域
栗東市発掘調査報告書より作成(田口一宏) |
しかし、独立棟持柱建物が2棟見つかっており、祭祀域としています。
円弧を描いて流れる自然流路とその内側に大溝で区切られた領域があります。
残念ながら西側に広がっていると考えられる遺構エリアは未発掘で、内部にどのような遺構が広がっていたのか分かっていません。
祭殿
大型祭殿の建物跡は後世の川により、片側が破壊されていて厳密には、独立棟持柱建物とは言い難いのですが、柱穴が南の祭祀域の西側祭殿とほとんど同じなのでここでは、独立棟持柱建物としています。柱間隔5間の建物で、南の祭祀域の祭殿と同じ工法で建てられています。
大溝の内側には、中型の独立棟持柱建物が建っていますが、全体像は分かっていません。
出土遺物
上に示した北の祭祀域の川、溝からは土器が少々見つかるだけで、祭祀具と思われる遺物は見つかっていません。南の祭祀域の様相とは大きく異なっています。伊勢遺跡の祭殿付近や近くの溝、自然流路から遺物が出ない状況とよく似ています。
「聖域」には祭祀具だけではなく物を捨てない、ということでしょう。
遺跡全域での出土土器
祭祀には土器も用いられました。下鈎遺跡からも多くの土器が見つかっています。
出土土器量の遺跡全体での分布を見てみます。
栗東市発掘調査報告書より作成(田口一宏) |
下鈎遺跡は30数年にわたって少しずつ発掘されたため、出土した土器の量は必ずしも全部の報告書に記載されていません。報告書に出土状況として定性的に書かれている表現や出土状況の写真を基に土器の出土状況を図にまとめました。
@南の祭祀域周辺の川辺に多くの土器が集中して
出土してる。
A祭祀域の北東側の川からも多量の土器が出土
している。ここは居住域にも隣接しており、
多量の土器はうなずける。
B祭祀域の河川の上流側や下流側からはあまり
土器は出ていない。
C南の祭祀域でも、西側の祭殿に隣接する川辺
には土器は捨てられておらず、「祭殿周辺には
土器を捨てない」という意識や規範があった
のかもしれません。
D一方、北の祭祀域周辺からは、ほとんど土器は
出ていない。北の祭祀域からはマツリの品物も
少なく祭祀域の性格の違いが如実に現れています。
土器を集中して廃棄しているのか、祭祀のため多量に埋置きしたのか?
判断の難しい所ですが、伊勢遺跡のように祭域には一切土器・木器・石器を捨てない、神聖性を重視している事実があります。土器の出土が少ない南の祭祀域の西側祭殿付近、北の祭祀域は伊勢遺跡と同じような管理や規制があったのかもしれません。
出土してる。
A祭祀域の北東側の川からも多量の土器が出土
している。ここは居住域にも隣接しており、
多量の土器はうなずける。
B祭祀域の河川の上流側や下流側からはあまり
土器は出ていない。
C南の祭祀域でも、西側の祭殿に隣接する川辺
には土器は捨てられておらず、「祭殿周辺には
土器を捨てない」という意識や規範があった
のかもしれません。
D一方、北の祭祀域周辺からは、ほとんど土器は
出ていない。北の祭祀域からはマツリの品物も
少なく祭祀域の性格の違いが如実に現れています。
溝から出土する祭祀遺物
これまで祭祀域での特別な遺物を紹介してきました。
井戸や土坑からの遺物が見当たりません。どうやら土坑祭祀の代わりに溝を通じて「地下のカミ」との交流を行っていたようです。
多くはないのですが、遺跡内の諸所で溝へ祭祀物と思われる貴重な品を埋納していました。具体的な場所は割愛しますが、次のような遺物が溝から見つかっています。
銅鏃、銅残滓(銅のかす)、土製鋳型の破片、手焙型土器(2個)、石杵(2個)
いずれも水辺の祭祀で用いられた貴重な祭祀具です。
秋田説によると土坑・井戸は大地に対する祭祀で農耕儀礼に使われるもので、河川水運、青銅器・水銀朱の生産を生業とする下鈎遺跡としては、水辺の祭祀が主となるのはうなずけます。
とはいえ、農業は重要な生活基盤なので土坑・井戸の代わりに「溝」を通じて「地下のカミ」を祀っていたのでしょう。
水辺の祭祀を想像
以上のような、遺物の出土状況、建物配置、また他の遺跡の祭祀のあり方などを参考にして、次のような祭祀の形を想像しました。
大きく分けて;
・北の祭祀域では「水辺の祭祀」は行われず、青銅器や水銀朱の生産など「工業の安全・繁栄」を願う
祭祀が行われていたが、祭祀具は用いなかったか、使用後撤去した。
おそらく、伊勢遺跡と似たような神聖な祭祀のやり方で・・・。
・南の祭祀域では、水辺の祭祀と水場遺構での祭祀が行われていた。
弥生中期の下鈎遺跡と同じような、また、後で述べる下長遺跡の祭祀とも通じるようなやりかたで。
・土坑祭祀に代わるものとして溝への祭祀具を埋納していた。
水辺の祭祀も、大きくは2つの祭祀形態があったと考えます。
祭祀が行われていたが、祭祀具は用いなかったか、使用後撤去した。
おそらく、伊勢遺跡と似たような神聖な祭祀のやり方で・・・。
・南の祭祀域では、水辺の祭祀と水場遺構での祭祀が行われていた。
弥生中期の下鈎遺跡と同じような、また、後で述べる下長遺跡の祭祀とも通じるようなやりかたで。
・土坑祭祀に代わるものとして溝への祭祀具を埋納していた。
@水場遺構で行われる祭祀
弥生中期の水場遺構と同じと考えられますが、弥生中期の水場遺構はメイン会場である導水施設の区画外であったのに対し、弥生後期の水場遺構はメインの祭祀空間に隣接しています。水運に関わる願いであり、かつ身近な生活に密着した祀りと考えます。
例えば、舟の建造や改修、廃棄などでも祀りごとをしたのかも知れません。
A川辺で行われる水の祭祀
川の中で土器が整列して配置されていました。祀りの対象は「水運の安全」とみなしています。川辺の祭祀の想像図 イラスト:中井純子 |