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下之郷遺跡-弥生中期 の水辺の祭祀
 〜環濠での祭祀、環濠と土坑での祭祀が見えてくる〜
環濠や溝からは多くの貴重な遺物や祭祀に関わる出土物が出ていますが、当時の祀りの姿を
浮かび上がらせるには十分ではありません。
井戸が10数基見つかっていますが、祭祀に関わる遺物はあまり出ていません。
ただ、井戸、環濠、土坑や周辺溝の遺物を組み合わせると、祭祀の様子が見えてきそうです。
井戸と円形壁立建物はセットになっており、その関係に興味深いものがあります。
下之郷遺跡の概要
下之郷遺跡のことは「導水施設」のところに書いたので、遺跡紹介はそちらをご覧ください。
縄文〜弥生〜古墳時代に人々が住んでいた竪穴住居は見つからずに、確認された建物は、掘立柱建物や西日本の大型拠点集落でしか見つかっていない壁立式建物、またこの時代としては珍しい独立棟持柱建物があります。
下之郷遺跡を取り囲む環濠と点在する井戸で祭祀が行われていたようです。
下之郷遺跡の井戸

環濠の規模

3重の環濠で囲まれる集落の規模は、東西330m、南北260m、面積はおよそ7ヘクタールにおよびます。3重の環濠の断面はV字形で幅5〜8m、深さ1.5〜2mと、幅の広く深い濠です。
ここから多量の土器、木器、石器が出土するほか、祭祀具や有機物も見つかっています。

井戸

報告書で「井戸」とされているものを図示しています。また、報告書では「土坑」とされているものの祭祀の観点で注目すべきものも図示しています。
下之郷遺跡の井戸
下之郷遺跡の井戸
出典:守山市発掘調査報告書より作成

ここでは、井戸A、Cと土坑D、Eについて述べています。
(井戸Bは導水施設の項で記述 )
(井戸/土坑の区分は報告書による)
井戸の大きさは、直径が1〜2m、深さが1〜2mの範囲となっています。
(上部が漏斗上に広がっているものは円筒部のサイズを記しています)
井戸には土器の破片や自然木などが出ていますが、ほとんどの井戸で祭祀具や祭祀に関わるような遺物は見つかっていません。Aで示す井戸では、籠目土器(つるを巻いた壷)や稲籾、動物の骨などが見つかっており、祭祀的な性格を示しています。
どうやら井戸の遺物だけからは当時の祭祀のやり方は推定しがたい状況です。

建物と井戸の関係

建物と井戸の位置関係を見てみます。
下之郷遺跡の井戸と建物1 下之郷遺跡の井戸と建物1
環濠外部の西区域の建物との関係 環濠内部の建物との位置関係
出典:守山市発掘調査報告書より作成

これらの建物は同時に存在したわけではないのですが、井戸との位置関係を見てみると;
円形壁立建物の近くに必ずと言っていいほど井戸があります。
円形壁立建物は朝鮮半島に起源を持ち、国内では西日本の大型拠点集落に少数見られる建物です。
円形壁立建物が下之郷遺跡に数多くあるのですが、その建物と井戸とがセットになって存在していたように見えます。
環濠から出土した重要な遺物

全発掘した環濠の範囲

環濠の発掘状況
環濠の発掘状況
出典:守山市発掘調査報告書より作成

前節の下之郷遺跡の全景地図で見つかった環濠の位置を図示していますが、見つかった環濠を全て発掘調査したわけではありません。幅6〜8m、深さ1.5〜2mの環濠を掘削するのは大変な作業です。
多くは、平面調査と言って遺構平面だけで環濠の範囲を確認しています。この場合は、掘削していないので出土物はほとんどありません。
ただ、条件が整えば全掘削をしており、この時は環濠内部から多くの遺物が発見されます。
また、全掘削しないまでも「トレンチ」と言って、環濠の断面を幅1〜2mの範囲で掘削することがあります。ここからも貴重な遺物が見つかることがあります。
次の図は、実際に環濠の底まで掘り上げた範囲を示しています。
「発見環濠」とは平面調査だけを行った部分です。

西部域からの出土物

環濠を全発掘した箇所では、ここが西側の出入り口であり柵や土橋、番小屋があったことが分かっています。
西部域からの出土物
西部域からの出土物  出典:守山市発掘調査報告書より作成

土器はどの環濠からも出ますが、第1環濠と第2環濠が数が多く、第3環濠では少なくなります。
第1環濠には武器関係の遺物が見られ、完形土器もいくつか見つかっています。
第3環濠に西日本では非常に珍しい銅剣が出ており、また木製品やその未製品が見つかっています。
木製品の埋納は、農耕祭祀の際に用いられたという説や木器の保管であるという意見もあります。
下之郷遺跡の他の部分でも、第2環濠からの出土は少ない傾向にありますが、ここでは桜の樹皮で石剣の持ち手を巻いたものが出土しています。これも珍しいものです。 

南部域からの出土物

割と広い範囲で環濠の全発掘が行われています。
南部域からの出土物
南部域からの出土物  出典:守山市発掘調査報告書より作成

土器の出土はとても多く、主要な対象物としていないのですが、特徴的なのは、丸窓付土器が出土していることです。守山市では弥生中期の服部遺跡でも見られます。
この形の土器は、特に名古屋市周辺のみで短期間に発途し、畿内から関東の狭い地域にごく少数分布することなどを考え合わせると、この種の土器が特殊な用途に使用されたことを伺わされます。
実用的な使い方ではなく、祭祀に用いられたと考えることができます。
祭祀具と理解される鳥形木製品が出ています。腰掛、杓子、木製高坏なども一般使用の品物ではなく、首長の権威を示すものとか祭祀用途が考えられます。 これらの品を使って環濠の水辺で祭祀をしたのか、単に廃棄したのか、分かりかねます。

東部域からの出土物

この区域は東の出入り口があった所で、集落の入り口には円形壁立建物の番小屋がありました。
また、環濠と建物ののすく近くに井戸Aがあります。
東部域からの出土物
東部域からの出土物  出典:守山市発掘調査報告書より作成

注目されるのは、第1環濠から近江の特徴的な木偶が出ていることです。木偶祭祀に用いられたと考えられますが、木偶祭祀の跡で埋納したのか、別の祭祀で用いたのか、単に廃棄したのか分かりません。
第1環濠からは実に多くの木器、木材が出土しています。土器の出土も多く中には祭祀用途とされる完形土器も含まれています。
図中、右上部の外周部の環濠で、飾り弓と飾り盾が出ていますが、これは何らかの祭祀に用いたものを埋納したと考えます。もし不要で廃棄するのなら、集落に近い第1環濠に捨てればいいのですから。
図の下部に土坑があり、ここからは加工途中の未製品が多く出ており、隣接する第1環濠からは、いろいろな木製品が出ています。したがって土坑は材料・未製品の保存場所であったとみなされています。
環濠には水が溜められていたのか、また水流があったのか議論されていますが、以上見てきた3カ所の環濠で多くの木器が腐敗せずに残されているのは、環濠には常に水があったと考えていいでしょう。
と言うことは、環濠の際で水辺の祭祀が行われていた可能性があります。
水辺の祭祀を想像
実際どのようにして、川辺の祭祀、井戸の祭祀、溝の祭祀を行っていたのでしょうか。 遺物をみても祭祀のやり方は分かりません。 例えば「井戸の祭祀」を単独でやっていたのではなく、複数の組み合わせで実施していたでしょう。 井戸と溝と土坑の位置関係や建物との関係も含めて考える必要があります。 ここからは、特定の場所を対象として、当時の祀りの形を想像してみます。

南部域 環濠と土坑Dでの水辺の祭祀の想像

【遺物の出土状況】
南部域の西端にある環濠と「井戸の位置」図に示した土坑Dと、環濠内部にある土坑群との関係について考察すると、祭祀の形が見えてきそうに思えます。
この区域の出土品を図に示します。
第3次発掘域からの出土物
土坑部分の一部拡大

  土坑のサイズ
   径 0.5〜2m
   深さ 0.3〜1.5m
土坑部分拡大図
第3次発掘域からの出土物  出典:守山市発掘調査報告書より作成

この区域の右側には無数の小穴と約60個の土坑(直径50cm〜2m)が月のクレータのように所狭しと開けられています。溝も掘られています。遺物の入った土坑がほとんどで、相当貴重と思われるものがあります。
土坑群は環濠に近接しており、環濠には水が溜められていたようです(木器が残されている)。
その環濠を隔てて1個だけ土坑が掘られており完形土器1個を含む多くの土器片が入っています。
これらの土坑群、環濠1、土坑Dがセットとなって祭祀域を形成していたようです。 この領域の遺物を見ると;
環濠1:多数の土器と木製品、完成管玉。 土器は完形品(全形が復元できる)も多い。
    木器は、全て完成品、板材、棒状加工品で製作途中の未製品はない。
土坑D:完形品1個を含む壷と甕。
北側の土坑群:管玉未製品、木材、完形品をふくむ多くの土器、石鏃、石剣、石斧、石錘などの
    石器も多い。炭や灰、焼土の入った土坑もある。
【想像される祭祀の形】
この地域で見られる祭祀行為は、
@土坑を繰り返し掘り続ける(大きいものは直径2m)
Aそこで土が焼けるほど火を燃やし、炭や灰、焼土を土坑に入れる
Bその土坑に、貴重な祭祀具や石器を入れる
C隣接する環濠に完形の土器や権威を示す木器(腰掛、組合せ容器など威信具)を埋置する
D環濠を隔てて存在する土坑Dにも土器を入れる
遺構の北側(図では右側)に開けられた無数の小穴と数多くの土坑、そこに入れられた遺物が祭祀の 様相を伝えていると考えます。
環濠周辺での祀り
環濠周辺での祀り  イラスト:中井純子

同一地区に所狭しと土坑が掘られるケースは他の遺跡でも報告があるようです。この様相を「人びとは何かに衝き動かされるように穴を掘り、その穴に土器や木器、炭・灰を投入するのである」と評されています。上の土坑群はまさしくこの状況と合っています。
滋賀県埋文センターの秋田さんは、この行為は「地下他界に住むカミをこの世(人間世界)に呼び寄せる」ためであるとしています。
炭や灰、焼土から考えると、火を燃やすことに意義があるのかあるいは夜間に照明を兼ねて火を燃やしたのか、判断は尽きませんが、現代の東大寺のお水取り祭祀のように火の粉を浴びながら土坑を掘り続ける人々の姿が浮かび上がります。そうして掘った土坑にとても貴重であった碧玉製管玉、搬入された丸窓付き土器、石器などを入れました。完形の土器を3個だけ埋納した土坑もありました。
土坑から呼び寄せたカミをもてなすのが、すぐ横の環濠に埋置きする完形土器や権威を示す木製品なのでしょう。これは水辺の祭祀に当たります。
環濠を隔てた唯一の土坑Dの意義は何でしょうか? 繰り返して使用したのかどうか分かりませんが、完形土器を含む土器を埋納していますが、数は多くありません。一度きりの使用なのか、土器を入れ替えながら継続的に使ったのか? 興味深いことです。
南部域の中央やや左でも環濠を掘削しており、貴重な祭祀遺物が多く出ています。威信具の杓子や木製高坏、鳥形木製品、搬入土器などです。祭祀用と思われますが、祭祀の様子を浮かび上がらせえるものはありません。

東部域 井戸Aと環濠、円形壁立建物での水辺の祭祀の想像

【遺物の出土状況】
重要な遺物がでる東部域の地図で、環濠内部区域(西側)には、円形壁立建物と井戸が近接して存在しています。
「第1環濠からは実に多くの木器、木材が出土しています。土器の出土も多く中には祭祀用途される完形土器も含まれている」と書きましたが、祭祀に用いられたのか、単に廃棄されただけなのか区別は難しいです。両方のケースがあるのでしょう。
円形建物はどうも出入り口の見張り番小屋だったらしく、多くの石鏃が床に残されていて、祭祀用の遺物はありません。
一方、3つある井戸のうち2つから完形土器やかご、稲籾などが出ています。一般に、井戸から出る完形土器は祭祀用途と言われています。
井戸A1は、直径約1.4m、深さ1.8mで底は平らです。井戸A3は、直径約1.2m、深さ2mでこれも底は平らになっています。
第25次発掘域からの出土物
第25次発掘域からの出土物  出典:守山市発掘調査報告書より作成
【想像される祭祀の形】
この地域の祭祀行為と思われる行為は、
環濠1では;
@農具や祭祀用の木偶を環濠に埋置している(腐敗していないので水があった証拠)
A完形土器が数多く埋納している
B保存目的でない稲籾を埋納している
井戸では;
@井戸A1、A3ともに完形土器が見られる 井戸A3の方が多い
A井戸A3からはつるを巻きつけた完形の壷が出ている。祭祀用なのか? 水汲み用なのか?
B井戸A1には保存目的でない稲籾を埋納している
環濠1は幅が約8m、深さが約1.8mの大きさで、多くの土器と木製品・材料が見つかっています。
環濠1の木偶や農耕儀礼に使われるという農具、完形土器は祭祀用でしょう。
発掘位置を見てみると、底に近い下層のレベルにこれらの祭祀用と見做せる木器、完形土器があるので、期日を隔ててバラバラと廃棄され積み重なったとは思えません。
また、隣接する井戸からも完形土器や、環濠と同じかごや稲籾が見つかっています。
どうやら、井戸と環濠で同時に水辺の祀りごとをしていたように思えます。
円形壁立建物は「番小屋」とされていますが、祭祀行為を行っていたかもしれません。

環濠外部の西区域の建物と井戸Cでの水辺の祭祀の想像

【遺物の出土状況】
「井戸と建物」のところで、環濠外部の西地区に円形壁立建物と井戸があることを紹介しました。
第42次発掘域からの出土物
第42次発掘域からの出土物  出典:守山市発掘調査報告書より作成
この建物の傍に井戸があり、これらは大溝で囲われています。大溝は中心部の環濠と同じような機能を持っていると思われます。大溝には水が常に溜まっていたらしく、水量の調整のためしがらみ杭が設けられていました。 建物−井戸−大溝という構成は祭祀域としての要素を持っているが、
・建物部分は平面調査のため未発掘
・井戸には土器片が少量(完形土器はない)
・大溝にはたくさんの完形土器と紡織機の木製部品
【想像される祭祀の形】
3重の環濠に囲われた中心部からみて、西側に外れた個所に円形壁立建物があり、大溝に多くの完形土器が埋納されています。これらの完形土器と木製品は大溝での水辺の祭祀として埋納されたと考えられます。
下之郷遺跡の周辺部でも、3重環濠の内部と同じような形の祭祀が行われていたようです。
注目すべき土坑

思いがけない遺物が出た 土坑E

ココヤシ容器
人面を模したココヤシ容器
写真:守山市教育委員会
発掘調査ではなく、水道工事の際に土坑が見つかり、底から思いがけない遺物が出てきました。 それは、ココヤシ容器です。なぜか、南方のココヤシが下之郷遺跡から見つかっています。
容器は長さ10.3cm、高さ10cmの楕円形で、直径約4cmの穴を開けて口にし、雌しべの跡(子房痕)を目に見立て、鼻になる小さな穴で鼻の形を作り、大きく口を開けた顔を表現しています。口の両脇には「ひげ」となる線が彫られ、鼻とひげは水銀朱で赤く着色されていました。東南アジアの呪術師が用いた祭祀具と思われ、壊れた時には修復して使っていました。
どのようないきさつでこの土坑に埋納したのかは分かりません。
東南アジアの呪術師が来ていたのでしょうか?

mae top tugi