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下長遺跡-古墳早期 の水辺の祭祀
 〜中央を流れる川全域で権威ある水辺の祭祀が盛大に〜
集落の中を大きな川が流れており、大きな祭殿が建てられ、川辺や溝で権威のある水辺の祭祀が行われていました。
下鈎遺跡と同様、びわ湖水運〜河川水運〜陸路積替え拠点として栄え、卑弥呼王権の下で活躍していました。水運の安全を祈ったようです。
卑弥呼王権や水運で栄えた下鈎遺跡との関連をうかがわせる祭祀具が出ています。
下長遺跡(弥生時代後期〜古墳時代早期)の概要
下長遺跡は導水施設で紹介した伊勢遺跡の終末期から、古墳早期の服部遺跡と同時期に栄えた遺跡です。第2期工業団地の開発にともない見つかった広大な範囲の遺跡です。
南側にも遺跡の範囲は広がっていると推測されますが、この区域は第1期工業団地が開発済で遺跡としては確認されていません。
下長遺跡の遺構分布
下長遺跡の遺構分布  出典:守山市発掘調査報告書より作成
下長遺跡(古墳時代早期)の性格
祭祀の形を考える時に、ここで何を生業としていたのか、地形的にどのような特徴があるのか、周辺遺跡との関係などを考える必要があります。  @当時の拠点集落は扇状地の高乾地に営まれることが多いのですが、下長遺跡の地域は氾濫原の低地に  当たります。大きな川が集落内を流れており、準構造船が見つかっていることから、びわ湖水運と  河川水運の拠点の役割を果たしていたと考えます。 A伊勢遺跡と下鈎遺跡が栄えた弥生時代後期、下鈎遺跡と入れ替わるように近くに下長遺跡が栄えます。  下鈎遺跡の河川の埋没が契機となり、水運拠点の役割を継いだようです。 Bこのため、川の傍に独立棟持柱建物の祭殿が建ち、川辺からは多くの祭祀遺物が見つかっています。  このあたりの様子は弥生時代後期の下鈎遺跡とよく似ています。 C卑弥呼政権の誕生とともに伊勢遺跡は終焉に向かいますが、下長遺跡はむしろ大きく栄えます。 D祭祀遺物は王権との関係を強く伺わせるものがいくつも出ており、卑弥呼王権の下でびわ湖水運の  拠点として機能していたと考えます。 このように考えると、川辺に祭祀物を供え水運の安全を願った祭祀の形がよく分かります。
祭祀域と出土遺物
集落の中を大きな川が流れており、上流側には祭殿が、下流側の集落の端に水の祭祀場があります。 その中間にはここを管理する豪族の居館が建っていました。 この川の流れに沿って祭祀が行われていたようで、川辺のあちらこちらから多くの祭祀遺物が見つかります。祭祀遺物は数の多さだけではなく、権威を象徴するもの、当時の卑弥呼王権との関りを示すような貴重なもの、儀仗や団扇状木製品、装飾付き武器などもありました。 先ず、特に重要な、他の遺跡ではあまり見かけない祭祀遺物を示します。
下長遺跡 ランクの高い祭祀具
下長遺跡 ランクの高い祭祀具  出典:守山市発掘調査報告書より作成

発掘調査報告書によれば、旧川道や並行して掘られている溝から多量の土器や木材・木器が出土しています。
その中には、祭祀に用いられた土器や農耕祭祀に使用したと農具などもあるのでしょうが、量が多いので割愛し、上図のような貴重な祭祀物や次に示す典型的な祭祀物の表記に留めています。
次に他の遺跡でも見つかっているが、でも貴重な祭祀遺物を示します。
下長遺跡 玉・青銅・木器の祭祀具
下長遺跡 玉・青銅・木器の祭祀具  出典:守山市発掘調査報告書より作成

他の遺跡でも貴重とされる玉製品や銅製品、舟や刀などの形状をした形代も多く見つかっています。
遺物の空白地(川岸)がありますが、報告書が発行されていない所です。 
水辺の祭祀の形

祭祀物をどこに入れるか

遺跡中央の川に沿った祭祀物の出る場所を詳しく見てみます。いくつかの祭祀の形が見えてきます。 大きな川のすぐそばに、川と平行して掘られた溝が続いています。 この溝から多くの貴重な祭祀物が出ています。もちろん、溝からは土器や木器も多く出ています。 川辺で行われた祭祀の形をは;
@川に直接祭祀物を供える(投げ入れる)
A川に沿って掘られた溝に祭祀物を供献する
B川の傍に設けた井戸や土坑に供献物を入れる
C特別に設けられた区画に掘った土坑に供献物を入れる

祭祀物のランク

祭祀の対象の規模(クニ、周辺地域、集落全体、グループなど)とかイベントの周期性や希少性などによって、祭祀の規模や盛大さが違って来るのは当然のことと考えます。これを祭祀のランクとして捉えます。
でも当時の祭祀の様子、ランクを調べることは無理です。ただ、ランクの高い祭祀はそれ相応の祭祀物を用いていると考えていいでしょう。
下長遺跡からいろいろな威儀具が出土し、祭殿や首長の居館が見つかり、他の遺跡の祭祀に比べて抜きんでているように思えます。祭祀のランクをどのように考えればいいのでしょうか?
【威儀具の階層性】
木製威儀具と祭祀の重層
出典:王権と木製威信具(安土城考古博物館)
愛知県埋蔵文化財センターの樋上昇さんは威儀具や祭祀設備、集落の構成などから祭祀の重層性や集落の階層性について記述しています。
出土する木製祭祀具の種類とそれを執り行う集落(クニ、ムラ)の構成から、どのようなレベルの祭祀が行われていたかを考察しています。 祭祀で使う木製品は誰でもが使えるものではなく、ヤマト王権が儀礼を定型化し、階層化していたようです。
遺跡から出土する祭祀具・威儀具の種類、数量から、大きなクニレベルの祭祀(王権の祭祀)か、集落全体の祭祀か、もっと小規模な祭祀かが区別できるとのことです。 すなわち、祭祀具・威儀具から祭祀のランクが分かるということです。
【文様の階層性】
下長遺跡の威儀具の文様
下長遺跡のp威儀具の文様
写真:守山市教育委員会 を加工
古墳時代になると威儀具や形象埴輪にいろいろな文様が施されます。その文様は権威・威信と密接に関わる装飾ということになります。
威儀具・装飾品・祭祀具に施された文様を見ることによって、それらの品物の権威の階層が分かるのです。
下長遺跡から出土した威儀具の写真を示しますが、刀の柄頭には「直弧紋」が、儀仗には直弧紋系列の「組帯紋」が施されています。この直弧紋は古墳時代に最も尊重され重要視された文様でありヤマト王権とのつながりを示唆しています。
儀仗や刀の柄頭という最高クラスの威儀具に、最も尊重され重要視された直弧紋が付けられていることが判ります。
この他、下長遺跡からは団扇状木製品、やまと琴、銅鏡、手炙型土器など他の遺跡ではあまりお目にかからない特別な祭祀具が出ていて、祭祀のランクの高さを示唆しています。
水辺の祭祀の実際
「祭祀物をどこに入れるか」に書いた@〜Cの区分に従い下長遺跡の実例を述べます。

水辺の祭祀 @川とA溝の祭祀

@川とA溝の祭祀
@川とA溝の祭祀
出典:守山市発掘調査報告書より作成
前記地図の中央西側の地域の川と溝の位置関係を示します。川に沿って近接して溝が掘られています。
旧川道と溝から多量の土器と木材・木器が見つかっています。溝からは玉製品や銅製品が見つかっています。近くには掘立柱建物もありここで水辺の祭祀が行われたようです。
祭祀物についていえば、玉製品や銅製品は溝からしか見つかっていません。前図に掲載した木器の祭祀物や農耕儀礼に使われたかもしれない農具はほとんどが旧川道から出土します。
ランクの高い祭祀物と一般的に使われる祭祀物は埋める(供献する)場所を変えていたようです。

水辺の祭祀 @川とA溝とB井戸の祭祀

中央東側にも川と溝があり、そこからもランクの高い祭祀物が見つかっています。
@川とA溝とB井戸の祭祀
@川とA溝とB井戸の祭祀  出典:守山市発掘調査報告書より作成

土器・木器はここの川道や溝からも多く出土しています。
この区域には、建物と井戸、建物と土坑がセットになって存在しており、いろいろな形の水辺の祭祀が行われていた所です。
図中、右側には弥生時代中期の竪穴建物、掘立柱建物と土坑が見つかっています。この区域は弥生中期の遺構の端になっており、人気のない所に祭祀施設が設けられていたようです。
この土坑で興味深いのは炭化物が同時に出ており、燃やす行為のある祭祀であったのでしょう。
その流れなのか、古墳時代になってもこの区域は祭祀空間として機能していたようです。
特に中央を横切る溝からは、玉製品、銅製品や希少な祭祀遺物が出土していました。
今回、祭祀用土器については、土器の量が多いこと、祭祀用の判断が難しいことから避けていました。
しかしこの溝からは外部からの搬入土器、初期須恵器、韓式土器などの希少な土器が多く出土しています。これらの土器は祭祀に用いられたと考えられます。
これらのことから、溝を祭祀場として盛大に祀りごとが行われていたようです。
図の中央、建物とセットになった井戸から少数の土器が見つかっており、祭祀が行われていたと推察できます。井戸には、特に希少な祭祀具は入っていませんでした。
井戸は3.5×4.1m、深さ90cmで簡素な作りながら4面が板囲いになっていました。川と重なるような形で掘られた井戸は、生活水を汲むものではなく祭祀用と見做していいでしょう。

水辺の祭祀 B川の傍の土坑の祭祀 C特別区画の土坑の祭祀

B川の傍の土坑の祭祀 C特別区画の土坑の祭祀
B川の傍の土坑の祭祀 C特別区画の土坑の祭祀
出典:守山市発掘調査報告書より作成
ここには建物と土坑のセットが2か所で見られます。
1か所は川のすぐそばに、もう1か所は川から離れているのものの溝で方形に区切られた区画の中にあります。
【川辺の土坑】
溝と掘立柱建物と土坑がセットになっている祭祀区域です。
土坑は、直径が2.5m、深さ0.4mで中には 素文鏡と形代としては大きい舟形が2個入れられていました。甕の土器片も一緒でした。
溝からは、素文鏡と剣形が見つかっています。溝と土坑から素文鏡が見つかっていることから、同じ目的の祭祀が行われたのでしょう。
【方形区画の土坑】
川の傍ではないので水の祭祀とは言い難いのですが、溝で区切らた方形区画の中に掘立柱建物と土坑があります。
土坑の大きさは直径1.5mで、中からは竪杵の半分が入っていました。土器は見当たりません。
祭祀区画とみなされていますが、詳細は分かりません。

水辺の祭祀 B川辺の井戸に供献物を入れる「井泉祭祀」

B川辺の井戸に供献物を入れる「井泉祭祀」
B川辺の井戸に供献物を入れる「井泉祭祀」
出典:守山市発掘調査報告書より作成
2本の大きな川が合流するところの川の肩部分に大きな井戸がありました。口径は4.5m×3mの不定楕円形で深さは1.4m、湧水点に達しています。
団扇状木製品、盾、鋸歯状文が施された刀形や下駄と土器片が出土しています。
これは「井泉祭祀」の可能性があります。
空間的には、建物群エリアとは大きな川で区切られ、後方には墓域が広がっています。
水辺の祭祀を想像

祭祀の実施場所から見た性格

このページの先頭で「遺構の用途別分布」を示しましたが、祭祀の性格に関係がありそうです。
@河川全域のどこかで行う祭祀
  人々に見せる、見られることを意識した祭祀。祭祀具の豪華さ、希少性で事故の権威を見せる。
A西側の空閑地にある祭祀域で行う祭祀
  人々に見られてはならない、見せられない祭祀
B墓域の一角にある井泉祭祀
  葬送儀礼に関係する祭祀
のように考えられます。
川辺の全域で行われる祭祀を見てみると、祭祀具を投入する対象で別れます。
 a.川に直接投入する
 b.川辺の井戸、土坑、溝に入れる
傾向として、前者は木製祭祀具が多く、後者は玉製品や銅製品、希少土器となっています。
すぐに流れ去っていいような祭祀と留め置きたい祭祀とか祭祀具があるのでしょうか?
もう一つ特徴的なことは、遺跡内の川の全流域で祭祀物が見つかることです。どのようにして祭祀を行う場所を選ぶのでしょうか。
大胆に想像すれば、下長遺跡は水運拠点としての祭祀、航海の安全・乗組員の無事などを水の向こうにいるカミに祈ったのでしょう。
多くの船が遺跡内のあちらこちらの川岸に係留されていたと想像できますが、係留された場所で祭祀を行ったとしたら、川の全流域で祭祀物が見つかることはうなずけます。

クニ レベル祭祀であった?

王権との関りが伺われる威儀具
王権との関りが伺われる威儀具
出典:守山市発掘調査報告書より作成
既に述べましたが、儀仗や団扇状木製品、装飾付き武器など「王権の祭祀」に相当する遺物が出ており、しかも、そこにはヤマト王権とのつながりを示唆する文様が彫り込まれています。
びわ湖水運を統括するのではないかと書きましたが、これらの祭祀具から判断する限り、ヤマト王権からの信認を受けての活動と思われます。
すなわち、水辺の祭祀もクニレベルでの祀りであったのでしょう。

下鈎遺跡を継ぐのか?

ここまで弥生時代後期末〜古墳時代初期の下長遺跡の祭祀について述べてきましたが、祭祀遺物を見ていると、弥生時代後期の下鈎遺跡の出土品と類似性があることです。
あまり他の遺跡では見られない、銅鏃と水銀朱を作る道具:石杵が両遺跡から出ています。
両遺跡とも地形的な視点、遺跡の中央を大きな川が流れていること、川の傍に独立棟持柱建物の祭殿があることなどから、びわ湖水運の拠点と考えられています。
両遺跡の距離は2kmと、すぐ近くになります。時代的にも下鈎遺跡に続くのが下長遺跡です。生活環境、風習なども同じ人々であったと思います。
青銅器生産や水銀朱生産をしていたと考えられる下鈎遺跡から、これらの祭祀具を引き継いだのではないでしょうか。


mae top tugi