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導水施設のまつり

導水施設の祭祀はどのような?

導水施設の祀りの場
野洲川下流域で見つかった導水施設(初期タイプを含む)では、その周辺に出土遺物がほとんどなく、どのような祭祀が行われたのか見えません。
下鈎遺跡では導水施設とそれを覆い隠す覆い屋、祭祀を執り行ったと考えられる掘立柱建物、その間に広がる「広場」、それら全体を区画溝で区切るなどの祭祀遺構が揃っています。
また、導水施設周辺には何も遺物はなく、区画溝には多量の土器・炭化物、焼けた土が入れられています。
これらの事実より、ある程度の祀りの様相が見えますが、祭祀の主体は分かりません。
下鈎遺跡の導水施設
下鈎遺跡の導水施設での祀り(想像図)  イラスト:中井純子

具体的にどのような祭事が執り行われたのか、導水施設に関わった考古学者が想像している文章を紹介します。

導水施設の祀りの様子(参考)
導水施設からの出土遺物はほとんどないので、どのような祭祀が行われていたのか分かっていません。
橿原考古学研究所の青柳泰介さんが南郷大東遺跡の導水施設の解説をされていますが、そこに導水施設周辺で行われた祭祀行為について、出土遺物群から想像した様子を書いています。

遺物は、その大半がこの施設の廃絶後に投棄されたようであるが、この儀礼執行空間内だけは出土量が少なく、その大半は上流のダムか下流の木樋に集中していた。
その内容は、・・・
  [略:土器のいろいろな種類、形状、木製品とその内訳、獣骨とその内訳・・・ ]
  [  南郷大東遺跡特有の遺物はすくない           ]
この儀礼は渡来人と首長を含めた少人数で、夜間に執行された、水を用いた秘儀であった可能性が高い。閉鎖的な空間はそれを象徴していよう。また、供物として肉、塩、果物、水などが土器や木製容器などに盛られ、机の上にならべられた。量が多いので、適宜入れ替えられた可能性がある。
上記アイテムのうち、モモ、ヒョウタン、ウマ、壷などは水を連想させる。建物の外側には盾や蓋を立てかけ、内部は要所を石製品などで飾ったと考えられる。参加者は竪櫛や勾玉などを身につけ、刀剣を帯び、下駄を履き、従者にさしばや蓋を翳させて、椅子もしくは木樋脇の板に着座したと考えられる。飾りつけが終わり、一同が揃うと、木製品を使って農耕、機織り、戦い、音楽などの情景を、場面を入れ替えながら演者が水を用いて象徴的に演じたと考えらる。
なお、儀礼終了後、それらの木製品は刃物で斬りつけられ、火をつけてから、ダムか木樋周辺に投棄した可能性がある。その他の遺物も、順次水に投棄されたようだ。
ところで、この施設は、一見したところ恒久的な性格を帯びているように見えるが、1回しか使われなかった火きり臼の存在などは、短期間しか使われなかった可能性も残す。 
   青柳泰介 2010「ヤマト王権と水のマツリ」安土城考古博物館


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