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歴史的な意義
野洲川下流域の拠点集落・大規模遺跡の水にまつわる祭祀について明らかになったことを述べます。
弥生時代〜古墳時代早期の「水の祭祀」の姿を明らかにできた

1.導水施設の歴史が見えてきた

導水施設は古墳時代と共に始まったとされているが、いきなり完成形ができる訳ではなく、元となる祖型の施設と性能向上の発展型施設が野洲川下流域にありました。

2.大型建物と「祭祀用の水」を得る井戸との組合せがここにもあった

大形祭殿の前にある「祭祀用の特別な水」を得る井戸は池上曾根遺跡で知られていますが、弥生時代の野洲川下流域にも存在していたようです。
下之郷遺跡、伊勢遺跡には遺跡中央部の祭祀空間に祭殿や大型建物の近くに大きな井戸が見つかっており、立地と建物との域関係から「祭祀用の水」を得る井戸とみなせます。
【伊勢遺跡には両方あった】
注目すべきことは、伊勢遺跡では導水施設と「祭祀用の水」を得る井戸の両方が見つかっていることです。
宝塚1号墳の囲形埴輪では、導水施設の埴輪と「聖なる水」の井戸の埴輪が古墳の造り出し部をはさんで相対する位置に置かれています。また、5世紀後半の群馬県の三ツ寺T遺跡の豪族の居館からも、導水施設と井戸が相対して設けてありました。
伊勢遺跡では両施設の場所は離れているものの、両施設を対で設けることに意義があるようです。

3.水辺の祭祀の姿が具体的に見えてきた

@これまで弥生時代〜古墳時代初期の水にまつわる祭祀として、導水施設、井戸の祀りがクローズアップ
 されていましたが、川辺や環濠・溝で執り行われる「水辺の祭祀」が盛大に行われていたこと、
 その具体的な様相が分かってきました
Aそれらが単独で行われたのではなく、川や井戸・土坑との組み合わせで行われていたことも分かってきました。
 例えば、川と土坑・溝が近接して存在する場合、両方へ祭祀具が投入されている。
 また逆に、同じような構成ながらほとんど遺物がないケースもある。祭祀の性格の違いか?
B川から水を引き込んだ「水場遺構」で行う水辺の祭祀の姿が判明しました。

4.井戸の祭祀にいくつかの形がある

この時代の井戸は飲料や生活用水としてではなく祭祀用として用いられたとされていますが、今回の調査範囲では3つのタイプの祭祀様式がありそうです。
@祭祀域の中央部で、大型建物とセットになった井戸で行う「祭祀用の水」を得る祭儀
    [下之郷遺跡、伊勢遺跡]
A川や溝、それに近接して設けられた井戸で「水辺の祭祀」を行う
    [伊勢遺跡、下鈎遺跡、下長遺跡]
B下之郷遺跡では、円形壁立建物とセットになった井戸が約10組も見つかっている
 これは果たして祭祀用か? どのような人が住んでいたのか?
 円形壁立建物は朝鮮半島に起源を持つので、朝鮮系の渡来人が独自の祭祀を行った?
拠点集落・重要遺跡の祭祀の具体的な姿が見えてきた
水施設と建屋などの関連、出土祭祀具などの状況証拠、他の遺跡の事例などより推測を交えて大胆に推測しました。詳しくは本編で。

導水施設の祀り[首長の祭祀]

【弥生中期】
下鈎遺跡:導水施設での祀りとその周辺での各種の水辺の祭祀
下之郷遺跡:祭域中央部の井戸で「祭祀用の水」の祀り
【弥生後期】
伊勢遺跡:導水施設と祭域中央部の井戸での「祭祀用の水」の祀り
【古墳早期】
服部遺跡:本格的な導水施設での「祭祀用の水」の祀り

水辺の祭祀[生活に密着した人々の願い]

【弥生中期】
下之郷遺跡:環濠での祭祀を主とし、環濠そばの土坑・井戸で水辺の祭祀
服部遺跡:集落の発掘範囲は狭いが、溝での祭祀がうかがわれる
【弥生後期】
下鈎遺跡:祭殿と川の傍で水辺の祭祀
服部遺跡:集落の発掘範囲は狭いが、高価な祭祀具を用いた祭祀がうかがわれる
【古墳早期】
下長遺跡:川辺の祭祀、川と井戸での水辺の祭祀
【古墳中期】
下鈎遺跡:導水施設が変化し中央土坑で水辺の祭祀
ヤマト王権とのつながり
導水施設の発祥と展開、水辺の祭祀での出土祭祀具を見ていると、いろいろな点で卑弥呼や初期ヤマト王権とのつながりが見え隠れしています。
伊勢遺跡で卑弥呼共立を主導したことを前提として;
【導水施設のつながり】
古墳時代早期に服部遺跡で本格的な導水施設となっています。その後、纏向遺跡で導水施設が設置されていて、近江の支援があった可能性があります。
【手焙形土器】
手焙形土器は卑弥呼王権の時代に盛隆となり、王権の終了と共に消えていく祭祀用の土器で、鉢の上にフードが付いたような形です。出現期は野洲川流域と大和・伊賀地域で見られます。
土台となる鉢が近江型の土器であり、近江発祥と考えられ、伊勢遺跡で一番古いタイプの手焙型土器が出ています。
纏向遺跡でも多くの手焙形土器が出ており、卑弥呼がこれを用いて祭祀を始めた可能性があります。
【威儀具】
纏向に生まれた卑弥呼政権は、各地の首長に権威を示しながらも良好な関係を保つために、中国から導入した新しい祭祀・威儀具を首長たちに配布していました。
下長遺跡で見つかった祭祀・威儀具を見ると、そこに施されている文様は、古墳時代に最も重要視された王権の文様で、下長遺跡とヤマト政権との密な関係が見て取れます。
以上いくつかの重要な関係性が見られるのですが、卑弥呼共立を主導した近江の勢力と密な間柄であったと言えそうです。
希少祭祀具から下鈎遺跡での青銅器・水銀朱生産が見えてきた
弥生時代中期〜後期の下鈎遺跡は、地形的な要素と集落の中を大きな川が流れていることから、びわ湖水運〜河川水運〜陸路運送の積換え拠点として位置付けてきました。
さらに、後期の下鈎遺跡については青銅製品/中間製品の出土が多いことから「青銅器生産」の可能性が言われていました。また、水銀朱を調合するときに用いる石杵が3点も出ることから「水銀朱生産」もありうると考えられていました。
2012年、奈良文化財研究所の森本さんの研究で、これまで四角い石だと思われていたものが天秤の分銅であることが判り、弥生時代に計量システムが存在したことが明らかになりました。
最近になって、これまで「大きな銅釧」と見なされていた下鈎遺跡の青銅製品が、弥生時代の計量器-天秤の分銅(環権:かんけん)であることが判りました。
天秤権は水銀朱を加工するときの成分の計量や青銅器を作るときの金属の計量に使ったとみなされています。
下鈎遺跡で青銅製品が多く見つかるだけではなく、製造技術の根幹となる計量器の一片が見つかることから、ここで青銅器の鋳造が行われていたことを後押しするものです。
また、水銀朱の調合には材料の計量が重要で、上に述べた天秤用の環権が出ていることは、ここで水銀朱の生産が行われていたことを裏付けるものです。ここで注目したいのは、水銀朱の痕跡を残す石杵と環権が同じ川岸から出土していることです。一緒に使われていたことを示唆します。
これまで「ひょっとしたら水銀朱の生産も?」と感じていたことの確度を上げました。
石杵 記号 環権(分銅)
朱の痕跡がある石杵 環権(秤用の分銅)
写真:栗東市教育委員会

弥生時代後期に、野洲川下流域で計量技術が確立していたことが裏付けられ、計量技術の歴史を探る上で重要な発見として注目されます。

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